2009年01月03日「日経新聞の黒い霧」 大塚将司著 講談社 1890円

カテゴリー中島孝志の通勤快読 年3000冊の毒書王」

 箱根駅伝、往路は東洋大学初優勝。山の神もビックリの驚異的な走りでしたね。
 復路は早大と抜きつ抜かれつ、いまの段階ではどちらが優勝するか、それとも他校がごぼう抜きするか予断を許しませんけどね。

 「たすき」をリレーするのはつくづく難しいですなあ。ベストコンディションで臨める選手のほうが少ないんですから無理もないことです。

 「ゴーイングコンサーン」と言われる企業も「たすき」をどうつなぐか、難しいところですな。

 本書はイトマン、コスモ信組、そして日経子会社のTWC事件という経済事件の現場にいた、日経の一幹部記者による告発の書。あるいは懺悔の書といってもいいだろうね。

 どんな企業でも多かれ少なかれあることだとは思うけど、サラリーマン経営者がここまで会社を私物化できるというのはその体質に大きな問題あり、としか言いようがないよね。
 新聞、テレビといった、一見、正論を振り回して「社会の木鐸」を気取る連中でも、一皮むけばこんなもんでしょ。

 私ゃ、昔から、マスメディアは情報ビジネス。それ以下でもそれ以上でもない。「社会の木鐸」なんぞと勘違いしてる記者がいるとはいまだに思いません。「社会的正義」が通じるのは読者が求めているときだけ。
 それに、記者を見たらとてもとても正義云々なんて言えるレベルじゃないっしょ。なにしろ、ほとんどの記者は大人じゃないし、社会常識的に考えても世間知らずなんだから。

 そう勘違いさせてしまう環境がマスメディアには少なくありません。
 たとえば、典型的なケースでいえば、商社、銀行、メーカーでも普通の会社ならペエペエが、総理や大臣クラス、経団連の会長や大企業の経営者にも簡単に会えるわけですよ。もち、これは「名刺」がモノを言ってるわけだけど、それがいつの間にか、「自分」だと錯覚してしまう。これが怖いね。
 
 イトマン事件にしても、著者が地道な取材活動と調査でスクープをつかんだ。けど、事なかれ主義の上司2人と組織という巨大でデリケートな壁の前に、思うような活動ができなかった。スクープはモノにできたけれども、金融界、不動産業界、そしてなによりも日経新聞という新聞社の体質転換を促す結果は得られなかった。

 社会の木鐸たる新聞社の中に、経済犯罪を構成する疑惑の主がいた。知りたくないことを知り、見たくないモノを見てしまった著者は、新聞記者の原点に帰り、疑惑の主、そして日経新聞をここまで堕落させた張本人として、社長の鶴田某を告発するのである。

 方法は株主としての立場から「解任」を要求するわけ。孤軍奮闘を覚悟しつつ、良心ある日経OBたちのサポートを得て、疑惑の主は社長、会長を辞任し、相談役をも追われた。

 にもかかわらず、相変わらず、会社のハイヤーを差し回させ、疑惑の舞台となった赤坂の高級クラブに足しげく通い、幹部をも通い詰めさせた。つまり、病根は1人を「削除」しただけでは解決せず、広く組織の体質としての治療が必要だったのである。

 しょせん、企業というものはそんなものかもしれない。オーナー不在のサラリーマン企業ほど実は「空気」で動く。長いものには巻かれろ、で動く。
 書く場を失った記者ほど淋しいモノはない。

 新聞記者といったところで、役員になれなければ、せいぜい「問題大学」がマスコミ対策用に用意した「教授ポスト」に滑り込めればめっけもの。あとはカルチャースクールの講師程度が関の山なのだ。
 筆で食べられる記者が何人いるというのか。

 「入社するまではジャーナリストとしての希望に燃えている。しかし4〜5年すると、自分の能力が見えるようになってくる。多くの者は自分が毒にも薬にもならない平々凡々な記者であると気づき始める。そうすると、どういうことが起きるか?
 新聞記者になろうとする人間には政治的な人間が多い。多数派を占める平々凡々の記者は何をするか。まず、要領の悪い記者の排除に乗り出す。次にだれもが認める名文家とか特ダネ記者の追い落としを目指す。それに理念や思想なりをしっかり持っている記者も狙われる」

 こうして、平々凡々の要領のいい記者たちが牛耳る社会が完成する・・・と著者は説く。

 この構図は実は新聞社だけの話ではない。大企業と呼ばれる会社には多かれ少なかれ共通して見られる要素である。中小企業のくせに大企業病にかかっている会社もそうだ。
 こういうダメな組織は100%、売上・利益などに問題が発生する。下からの革命は困難を極める。株主がしっかりチェック機能を果たさなければいけない。

 新聞社の体質は記者の体質にほかならないが、どことなく記者=教師の体質に似通うものを感じられてならない。300円高。