2016年03月02日聖徳太子さんのお墓に詣りました。。。

カテゴリー中島孝志の「日本伝統文化研究会」」

 先週、名古屋原原と大阪原原が修了。次期原原は4月から。とすると、2カ月ほど空くかと思いきや、なんだかんだで名古屋、大阪には何回か参上することになってます。直近では来週の日曜だったっけ。新潟原原がありますんで、新潟から大嫌いな飛行機で大阪入りっす。

 なんでかつうと、月曜から涅槃図がオープンされんのよね。清水寺は終わったようですが、京都三大涅槃図はこの数日しか開帳してくれんのだわ。月曜は午後6時までに都内に入らんとあかんわけでね。ちょいと駆け足ですわな。

 せっかくなんで、日曜は園城寺三井寺に詣ろうと考えとります。
 弘文天皇陵ですな。
 天武天皇に暗殺された天智天皇の後継者ですね。壬申の乱でむりやり皇位を乗っ取られたわけでね。先日のブログにあるとおり、日本唯一の御寺である泉涌寺では、天武以下天武系の天皇は一切認めておりません。天武系のご位牌だけは祀ってないもんなあ。

 この依怙贔屓は徹底してますな。聖武天皇もそうなのよ。

 さて、名古屋原原と大阪原原の合間ですけど、朝イチで新大阪に到着。ホテルに荷物預かってもらって法隆寺へ。

 JR法隆寺到着。で、法隆寺をスルーして近くの藤ノ木古墳へ。。


崇峻天皇と穴穂部皇子が合葬されてます。

 崇峻天皇ゆうたら蘇我馬子に暗殺された天皇ですね。で、穴穂部皇子も蘇我氏に暗殺されています。例の崇仏戦争ですね。物部守屋が立てたのが穴穂部皇子。で、対抗する蘇我氏が立てたのが泊瀬部皇子、のちの崇峻天皇ですね。

 蘇我氏がやったことはのちの藤原氏、徳川がやったことと同じ。権力をかすめとって一族の繁栄のみを切望する連中ですわな。ロスチャイルドの類と同じでしょう。

 さて、ここまで来たら、足を伸ばして推古天皇陵も行っちゃいましょ。





 推古天皇ゆうたら、聖徳太子を摂政兼皇太子に任じたことで知られてますけど、どうやら、崇峻天皇を暗殺した犯人は聖徳太子だ、という風説の流布を流した張本人のようです。狙いは、わが子竹田皇子を後継者にするために邪魔だったからですよ。

 推古の兄は聖徳太子の父親用明天皇です。で、推古の旦那は用明天皇の腹違いの兄、つまり推古にとっても腹違いの兄である敏達天皇です。

 つまり、竹田皇子つうのは両天皇の息子つうわけですね。





 本命中の本命ですけど、短命でしてね。で、しかたなく、甥の厩戸皇子を皇太子にしたわけです。

 この間、厩戸皇子はストレスで精神を病んで道後温泉に治療に行ってますね。そりゃそうだわな。疑心暗鬼、孤立無援、四面楚歌ですもんね。


聖徳太子のお墓は叡福寺にあります。法隆寺ちゃいまっせ。

母后と奥さんと3人のお墓です。


 聖徳太子さん、奥さんと同じ日に亡くなっています。自裁でしょうな。当時は母系社会ですんで母親の墓に入れてもらったのでしょうかねえ。


南大門の南側に西方院がありました。日本初の尼寺で、代々、「蘇我さん」が守っておられます。

 西方院は、聖徳太子御薨去のあと、月益(蘇我馬子の娘)・日益(小野妹子の娘)・玉照(物部守屋の娘)の三姫が太子の御遺髪を納め、太子御作の阿弥陀如来尊像を安置。ひたすら弥陀の西方浄土を欣求されたわけでね。

 けどさ、オヤジの代では殺し合いしてたんちゃうの? おかしいわな。つうことは、蘇我氏と物部氏は対立なんかしとらんかった、と理解すべきっしょ。逆に言うと、「対立〜殺し合い」という歴史をつくりたかった勢力がいたんでしょう。

 それはだれか? 蘇我氏を滅ぼした人たち=天智天皇+中臣鎌足・・・共通することは「親百済派」つうこと(天武天皇は「親新羅派」ですもんね)。

 狙いは? 百済の利権を死守すること。蘇我氏+聖徳太子は? こちらは親半島親大陸なのよ。つまり、単独講和か全面講和かの違いなんかなあ。。。
 「父祖の地を取り戻せ」つう欽明天皇の遺言を守るには親半島親大陸ではあかんわな。
 
 で、帰りは阿倍野乗り換えでいつものように四天王寺で蕎麦三昧。その前にアベノハルカス美術館で「長谷寺 十一面観音」が勢揃い。これは見なくちゃね。その後、いつもの蕎麦屋さんでゆったりゆったり。。。大阪原原会場にはこれでも1時間前に到着。セーフ。。。

 名古屋、大阪の原理原則研究会は最高ですよ。ぜひ一緒に勉強しましょう。。。