2016年12月08日おかしな風景。。。

カテゴリー中島孝志の不良オヤジ日記」

 ちょっと違うんじゃないか、と思うことがあります。

 たとえば、千葉大医学部の研修医と医学生たちが女性をぐてんぐてんに酔わせたあげく、集団暴行した事件。真相はどうなっとるかわからんけど。

 「頭のいい人たちがこんなことするとは?」
 「もったいないねえ。エリートなのに」
 「これで一生棒に振ったな」
 「指導する側の人間がこれではねえ」
 「人命を助けるべき人がこんなことでいいの?」

 呆れるやら怒るやら、感想は人それぞれでしょ。

 で、私がちょっと違うんじゃないかな、と奇異に感じたのは・・・大学の学部長とかが謝罪会見してること。なんつうか、いつもそうなんすよね。極端なこというと、いじめ等々の問題にしてもそうなんすけど。

 本人の問題なんじゃね?

 こういう犯罪って偏差値の高低は関係ないっしょ。医師とか医学生とか一流大学生だからびっくりしたけど、暴走族とかヤンキーなら当たり前、ぜんぜん不思議じゃない、あいつらならやるだろな、つうこと? ヤンキーじゃニュースにもなんない?

 それはないわなあ。

 基本、暴走族とかヤンキーってカノジョいるしぃ。スケに不足してねえしぃ。わざわざ強姦する必要ないわけ。なにしろすぐ逮捕されちゃうからそもそもやんない。

 で、いつもこの手の事件では学長、校長、学部長あたりが謝罪会見するわけよ。でないと、メディアは許さんわけね。「謝罪会見のリハやらんとあきまへんでーー」ゆうてね、リスクマネジメント会社が儲かりまんねん。

 けど、相手はいい大人っすよ。成人してるし。精神的にはガキ? いやいや、大人でしょ。学長とか校長とか学部長なんて関係なし。

 親の顔が見たい? 親の教育云々も関係なし。一緒に暮らしてようが暮らしてなかろうが、親の教育貢献度なんて、いまの時代、ほとんどありません。親の意見なんかそもそも聞きません。小遣いもらう時だけ聞いてるフリはするけどね。だって若者だもん。

 人間てのは広い意味で「環境」に育てられるわけ。そういう意味で友達とかバイト仲間のほうが影響は大きいわな。。。では、そういう友達とかバイト仲間が「加害者」として扱われるんかいな?
 学校関係者も病院関係者も、もちろん、親も家族も親戚も「被害者」なわけでね。「環境」にも迷惑をかけてるわけさ。

 酒の勢い? アルコールが理性を失わせた? んなこた関係なし。バカな女によくいるよね。「お酒がそういう気分にさせたのよ」ってね。んなこたありません。やる気満々、理性を失って・・・「言い訳づくり」を待ってたのよ。ホントはね。

 すべては本人の責任。だれのせいでもありません。親の教育が悪いせいでもないっす。

 いつものように、「正義」にはいちばんほど遠いおバカなメディアが正義漢面して学校に押しかけたんだろうね。

 「あなた方の責任は?」
 「知らねえよ。こっちも迷惑してんだよ」
 「教育者として指導訓育する責任があるんじゃない?」
 「小中学生じゃあるまいし。われわれが教育してるのは医療スキルだけだかんね」
 「でも大学は教育の場でもあるわけでしょ?」
 「わが校には修身のカリキュラムなんかねえんだよ」
 「とても教育者の言葉とは思えませんね」
 「だから教育者じゃないんだって」
 
 勝手に理想像を描くなよ。企業の不祥事でもそう。本人が悪いのに社長とか副社長が謝罪したり、役員が3人くらい一斉に頭下げたり。

 「すべて本人が悪い。こちらに聞いてもお門違いっす」
 「当然、退学ですよね?」
 「服役して出所するまで停学扱いっす」

 こういうもんじゃねえの。一応、ムショで服役したら罪を償ったつうことじゃないの?
 
 「そういうわけにはいきません。死ぬまで罪を償ってもらいます」
 「日本は罪刑法定主義じゃないの?」
 「それでもあなたは人の親ですか? 被害者の身になってください」
 「するってえと、加害者はいつになったら許されるの?」
 「永遠に許されません!」

 「精神的な罪と罰」と「刑法としての罪と罰」を分離せずごっちゃに考える。「sin」と「crime」はちゃうねんで(「not guilty」と「innocent」もちゃうけど)。だれがなんの権利で学長や経営トップに謝罪させるねん。親も追い込む。
 なるほど、日本人の精神構造は「儒教」に支配されていることがわかります。ここを脱却できんと「阿Q」と同じ。ま、認識もしてないと思うけど。だから怖いんだよね。

 私の方がおかしいんかいな?


 さて、今日の「通勤快読」でご紹介する本は「世界一豊かなスイスとそっくりな国ニッポン」(川口マーン惠美著・907円・講談社)です。