2017年04月23日春の京都その4 知恩院から天智天皇陵へとまいりました。。

カテゴリー中島孝志の「日本伝統文化研究会」」

 朝再びの知恩院。御忌ですからね、全国から上人さんが集まっておられて、立て続けに講演が行われてますね。一方、大正大学と仏教大学の学生さんたちもブースを出して、浄土宗の布教活動をしてました。


中段から上段へ。左は法然上人像。

勢至堂。知恩院のルーツというか、家康が大伽藍を築くまではここがメインでした。

御廟ですね。


除夜の鐘で有名な大鐘楼。

 知恩院は広いっす。高野山ほどではありませんけど。御廟まで上りますと、京都の町が一望できますね。御所はもちろん、。二条城も見下ろす形になります。

 やはり家康は軍事基地としてこの地に目をつけ、知恩院を整備していったんでしょう。秀忠が寄進した三門など、あれだけ巨大なものはありませんよ。200人はゆうに入りますからね。 

 さて、知恩院から醍醐寺へ。そして上醍醐に登山するつもりが、前日の雨で足下不如意。まあ、近いんでというわけではありませんが・・・。

 天智天皇陵=御廟野古墳。山科にある古墳でしてね。形は八角墳。これ、重要ですよ。天皇だけに許されたものです。

 この山科陵は第38代天智天皇の陵として治定されてます。天皇陵は幕末維新のどさくさで決められたモノですから、実はいい加減でしてね。天武持統合葬陵=野口王墓、それと史書が完璧に残されている醍醐天皇陵くらいでしょ。確実なのは。
 醍醐天皇陵については、火災戦災を免れただけでなく、醍醐寺がきちんと資料を残してきたおかげです。

 歴史家は調査したいでしょうが宮内庁が許可しない。情報公開等々とは次元の違う話なんでしょう。


やはり空気が違います。

なぜかこの前で韓国人の集団が話し込んでました。観光客という感じではないんだよね。

日時計。正確ですよ。


こんな位置関係なんだよね。


定家が撰んだ百人一首のトップバッターですよ。

 ところで、この地に陵がある。陵とはお墓ですから、では、ご遺体も当然、ここに埋葬されている、と考えたくなりますよね。でも、違うんですよ。だって、ご遺体はそもそも発見されてませんから。

「狩りに行く」と言い残したまま、靴だけがここで発見されたんです。元もと、山科(山階)の地はイノシシとか鳥の猟場ですからね。この陵ですら「イノシシ出没注意」とあるくらいです。

 事故? 事故なら発見されるでしょう。発見されないようにだれかが隠したんでしょう。だれが? 敵対する勢力でしょう。



 歴史書を見ますと、天智天皇の弟=大海人皇子が、天智天皇の息子=大友皇子に戦いを挑んで滅ぼし(=壬申の乱)、みずから即位した、とあります。第40代天武天皇ですね。
 天智天皇と天武天皇は父舒明天皇、母皇極・斉明天皇の息子たちである、とされています。

 真実は違います。天武天皇と天智天皇は異父兄弟です。天武のほうが年上です。天武の前に大友皇子は即位してます。弘文天皇です。弘文天皇陵を拝した時にブログでしかと書きましたのでご参照ください。

 まあ、いろいろ勉強になりました。ややこしい歴史についてはいずれまた原原で詳しくお話しましょう。