2015年06月02日「熊野お燈まつり」の写真が出てまいりました。

カテゴリー中島孝志の「日本伝統文化研究会」」

 写真あったよなあ。たしか、昔、『人脈がいっぱい』つう本に掲載したはずだからねえ。

 ありました。みっけ。

 熊野のお燈まつりの写真ね。死に装束ですな。那智大社もそうだけど、上皇でさえも死に装束で詣るんです。

 お燈まつりは毎年2月6日。もとは旧暦正月6日(『紀伊続風土記』)。祭礼で分けられた火が届くまで、各家で灯明を挙げることは禁止されてたの。すなわち、毎年、ここで「火の更新」が行われるわけです。

 起源は敏達天皇3年正月2日とか。神倉光明放です。同4年正月6日に「神倉火祭始」とあります。神武東征神話に起源を求め、高倉下命が松明をかかげて神武を熊野の地に迎え入れたことが始まりとか。

 となると、やっぱ八咫烏が関係しとるんよ。原原では「アベノミクスの死角」についての質問はあちこちであったけど、「どうして3本足なんすか?」つう質問は出雲原原の1人だけ。さすが神話の郷だけのことはありまんなあ。。。


熊野のキーマン岩澤さん(当時新宮JC理事長)と一緒。吉田教授が映ってない。おかしいなあ。

神倉神社の山上社殿の真ん前。煙たいし熱いし大変なんすから。

熊野シンポジウムで初講演。なんと1988年。いよいよバブル真っ盛りになるつう時代。地元新聞に掲載された写真です。

 参加は男のみ。チビちゃんを抱いて参加しとる爺様もいますよ。
 「上り子(あがりこ)」と呼ばれるのね。上り子は白襦袢に白鉢巻や頭巾、手甲脚絆。腰から腹にかけては荒縄。五角形の檜板にケズリカケを詰めた松明。この松明には祈願の言葉をしたため、上り子同士で行き会うと挨拶として松明をぶつけ合うわけ。

 熊野速玉大社、阿須賀神社、妙心寺を巡拝して、神倉神社に向かいます。この間、御神酒を振る舞われるんですが、弱いヤツは神社を上がれなくてみなで押し上げます。

 小松明が社殿に迎えられますと社殿の扉を開いて神饌を供え、祝詞を奏上し、御幣の1本を社殿に収めて閉扉します。ここらへん、やっぱり天照大神のアマノイワヤトに関係してますな。

 記憶のいい人は、以前、通勤快読で「幣」についてちょっと話したことを覚えているでしょう。
 ちょいと解説しときましょうか。「サービスしすぎ!」と叱られちゃうかも。。。

 アマテラスは弟神スサノオの悪行に怒って岩屋の中に籠もりました。すると世の中は真っ暗闇。悪神が跳梁跋扈。で、神々は香木の賢木を立てて上の枝には勾玉を飾り、中の枝には鏡を飾り、そして下の枝には「幣」を飾ったわけです。
 アマノイワヤトでは灯火が焚かれ、香料の匂いが漂い、音楽が鳴り、アメノウズメが桶の上で踊り。。。するてえと、興味津々のアマテラスが少し岩戸を開けて覗きます。「いまがチャンスだ!」とばかりにアメノタヂカラオノカミが一気に岩戸を開けて引きずりだすと、イワヤトの出入口にしめ縄を張ります。

 もう入れなくしたんですね。しめ縄は結界ですわな。もう戻れません。これで世の中は闇から解放されました。

 さあて、上り子たちは大松明の火を自分の松明に争って移して山上へ向かいます。全員が境内に入ると、「介錯」が入口の木柵を閉じるわけ。これで火と煙が立ちこめますから目を開けることも゛きないほど。
 で、午後8時ごろに「介錯」が木柵を開くと、上り子たちは一斉に神倉神社の石段を駆け下りて家まで走り続けます。闇の中を上り子たちが手にする松明の日が滝のような勢いで下ってゆくあり様は「下り竜」そのもの。

 神職や介錯たちも山を下ります。整列して阿須賀神社に向かいます。阿須賀神社では神職がやっぱり1本の御幣を捧持し、左右左と幣を動かしながら後じさりしつつ拝礼します。「幣」がいかに重要か、わかりますね。

 紙幣の幣ですよ。幣は神社には必ずあります。参詣者が幣帛をささげる社殿=拝殿と本殿との中間にあるのを「幣殿」とか「幣拝殿」とかいうでしょ。

 それにしても、写真つうのは魂とられるから苦手なんだけど、撮らんとあかんなあ。


 さて、今日のメルマガでご紹介する本は「幸せな死のために一刻も早くあなたにお伝えしたいこと」(中山祐次郎著・幻冬舎・864円)です。