2007年01月31日「歌は心でうたうもの」 船村徹著 日本経済新聞社 1890円

カテゴリー中島孝志の通勤快読 年3000冊の毒書王」

♪泣けた 泣けた こらえきれずに 泣けたっけ♪

「高野君、ずいぶん泣くんだねぇ」
「はい、そうです」

♪遠い 遠い 想い出しても 遠い空♪

「高野君、たしか君、茨城の笠間だよな」
「そうです」
「オレは群馬県だけど、オレんちの方が遠いよ」
「・・・自分の心の中の故郷は、本当に遠いんです」
「ごめんな。そうだよな、うん、遠いな。そのうち近くなるよ。がんばれよ」

 これ、キングレコードのレッスン室での一こま。高野とは作詞家の高野公男さんのこと。からかってるのは、キングのチーフディレクターの掛川さん。
 で、一緒にいたのが本書の著者、というよりも作曲家の船村徹さん。

♪泣けた泣けた、遠い遠い♪ってのは?
 そうです、船村・高野コンビを世に知らしめた名曲「別れの一本杉」の詩の一節ですね。
 昭和30年の発表ですよ。
 帰りたくても帰れない故郷。郷愁の念、望郷の念、帰れないからよけいに恋しくなるんだよねぇ。そんな心象風景を歌にしたわけ。

 当時は集団就職という言葉がありましたよね。
 「金の卵」と呼ばれてさ。なんのことはない。安月給で使われてるわけ。大手企業とかじゃないよ。社長1人、従業員1人くらいの小さな町工場とかがほとんど。
 で、東北から上野駅まで子どもたちが列車でやってくる。みな、就職先の社長さんとかその奥さんとかが駅まで出迎えてくれるわけ。
 希望に溢れて上京すんだけど、現実は厳しいよ。学歴もないし田舎者だし、出世なんかできるわけがない。だから、辞めちゃう子も多かったと思うんだよ。
 社会人たって、中身は15〜6歳になったばかりの子どもなんだからさ。やっぱ親が恋しいよねぇ。けど、半分、口減らしみたいだもん。盆と正月に帰れればいいほうさ。仕送りもしなくちゃいけないし。帰るときは土産とかお金とか持って帰りたいの。そして、誉めてもらいたいんだ。子どもって、親に誉められるのがいちばん嬉しいんだよ。

 うちじゃ、貧乏人のくせに田舎の子どもたちを預かってたんだよね。小学4年までいつもだれかしらいたなぁ。狭い部屋で3人くらい寝るんだよ。雑魚寝ってヤツ? 私? 隅っこで寝てた。

 この前、たまたま夏休みの絵日記とか出てきてね、どうも、みな、私につき合わされてカブト虫とかクワガタを捕りに行くの嫌がってんのが見え見えなんだよね。「もう帰ろう、帰ろう」って何回も言ってるわけ。けど、ぜんぜん気づかないでさ、あっちにいる、こっちにいるって引きずりまわしてんだよなぁ。せっかくの休みに悪ガキのお守りじゃね。悪いことしたな。

 下宿屋じゃないから食費とか一切とらないの。もらった給料全部おふくろに預けるでしょ。で、所帯を持って家を出るとき、貯金通帳を渡すんだよね。全額きちんと貯金されてるんでびっくりしたらしいよ(おふくろの葬式で聞かされた話だけどさ)。
 いま、親戚の家ででかい顔できるのも両親のおかげなんだよね。

 日本も貧しかったけど、国民も貧しかった。「三丁目の夕日」の世界だもん。あれ、昭和33〜4年だからね。
♪泣けた 泣けた、遠い 遠い♪って、いま、共感できる人って少ないかもしれないね。日本も国民も豊かになったからかな?

 船村さんと高野さんの出会いは東洋音楽学校(いまの東京音大)なのね。
 高野さんは声楽科、船村さんはピアノ科。船村さんが音大にしたのは、ギターやトランペットをやってたから。けど、ピアノはぜんぜん弾けない。「だから、習いに来たんです」って、まぁ、正論だけどね。
 1級上の黒柳徹子さんの伴奏ではずいぶん叱られたらしいよ。

 栃木訛りがコンプレックスでね。授業で意見発表ができなかった。
 ある日、授業中に「ベートーベンはさぁ」なんて東京弁で言ってるのを聞いてキレちゃった。
「チクコケ、コノ!」って。栃木弁で「痴句(バカなこと)こけ、この」ということらしいんだけど、教室は一瞬シーン。ドイツ語と思われたらしい。
 爆笑でね。授業が終わるまで恥ずかしくて机に突っ伏してた。

 屋上でガックリ来てると、「おめぇ、栃木のどこだぇ?」と聞いてくるヤツがいる。
「おら、茨城の笠間だっぺ」
 それが高野公男さんとの出会い。

 1年後、高野さんが「学校をやめる」と言い出しちゃう。
「音楽より文学。茨城の生んだ野口雨情先生のような詩人になりたい。おまえも焼け野原で働く大衆のための歌を作れ」

 で、船村さんは流しの仕事すんのよ。「こんなに!」って思うほどお金をもらうけど、親分に全額差し出して少しだけもらう。
 高野さんは新宿のキャバレーでボーイやったりしてね。
 2人にあったのは、野心と根拠のない自信だけ。若いってのは、そういうものだろうね。

 作品を持ってレコード会社に出かけます。「高野公男作詞、船村徹作曲」たって、知っているのは2人だけ。親も知らない。

 この時、21歳なんだけど、船村さんがどれくらい曲をストックしていたか?
 2000曲ですよ。2000曲。
 すごいと思うでしょ? けど、この人、新聞とかで痛ましい事件があったりすると、「曲日記」を付けるわけ。文章じゃなくて、五線譜で表現する。だから、溜まりに溜まって2000曲。

 「別れの一本杉」ができたのはいいけど、その頃から高野さんの顔色がろうそくみたいに白くなって咳(せき)が止まらない。そして、喀血。
 年が明けて「別れの一本杉」が映画になった。それくらいヒットしたんだよ。
 この歌、高野さんの人生そのものだからね。別れざるをえなかった恋人役に雪代敬子さん(映画の関係で大阪で会ったことありますよ。関テレの白雪劇場にも出てたなぁ)。
「封切りになったら、車イスを押してやるから見に行こうや」

 けど、封切り前に医師に呼ばれるわけ。
「長くて1週間。立派なお葬式を出してやったほうがいいね。しかし、ここまで放っておいて親友といえるのかね?」
 この一言は効きました。ずっと船村さんのトラウマとして残ります。
 好きで放っておいたわけじゃない。1日1食も食べられない生活の中、曲を作り詩を作ってた。夢だけを食べて生きてた。
 その言葉通り、高野さんは1週間後に26歳で亡くなります。あの屋上で出会ってから7年という月日が過ぎてました。

 それから船村さんは4500曲も書きます。名曲が多いよ。
 たとえば、次の歌なんかどっかで聞いたことあんじゃない?
・あの娘が泣いてる波止場(三橋美智也)
・王将(村田英雄)
・兄弟船(鳥羽一郎)
・ダイナマイトが百五十屯(小林旭)
・東京だよおっ母さん(島倉千代子)
・なみだ船(北島三郎)
・みだれ髪(美空ひばり)
・矢切の渡し(細川たかし)
・哀愁波止場(美空ひばり)

 だけど、やっぱりこれがいちばんかな。
「別れの一本杉(春日八郎)」

♪泣けた泣けた
 こらえきれずに泣けたっけ
 あの娘と別れた哀しさに
 山のかけすも鳴いていた
 一本杉の
 石の地蔵さんのよ 村はずれ♪

♪遠い遠い 想い出しても遠い空
 必ず東京へついたなら
 便りおくれと云った娘の
 りんごのような
 赤い頬っぺたのよ あの泪♪

♪呼んで呼んで そっと月夜にゃ呼んでみた
 嫁にもゆかずにこの俺の
 帰りひたすら待っている
 あの娘はいくつ
 とうに二十はよ 過ぎたろに♪
 
 いい詩だなぁ・・・。